Hear12 小鹿ゆかりに聴く
今回のHearは、ダンス、アート、農業、環境を分野として活動する小鹿ゆかりさんにお話を聞きました。小鹿さんは、京都のダンス公演の制作や普及活動にたずさわりながらも、自身もダンサーとして活躍されたり、劇場で野菜市を企画されたりと多方面で活躍されています。その多岐にわたる活動の内のダンスと農業のことを中心にお話を聞きました。
コンタクトインプロヴィゼーション(※)っていうダンスの手法がおもしろかった。
— 自分が踊るだけではなくて、オーガナイズしていることなどふまえて、ダンスについて教えて下さい。
ダンスをやるつもりは無かったんです。踊るつもりはなかった。
でも、アートには大学(農学部)にいた頃からすごく興味を持っていて、自分は農業とか農学をやっていきたいと思っていたんですが、何かが足りないと思ってきた。アートにもいろいろあるし、そのなかで何しようかな?最初に現場に入ったのが京都国際ダンスワークショップフェスティバルだった。ここでダンスを知って、ダンスが自分にとって一番分かりやすいなと思った。言葉を使わないし、コンタクトインプロヴィゼーションっていうのが、言語以外で相手に物事を伝えたり、相手から受け取るかっていう作業の連続でできてくるダンスで、その方法が面白かったんです。
基本、コンタクトインプロヴィゼーションでは即興から動きを作り出すから、決まった振付を覚えるものとは異なる、「選択の幅広さ」に魅力があった。
分からないものを認めてくれる領域が身体にはあるのかもしれない。
言葉をうまく使えないコンプレックスみたいなものがずっとありました。
それがどんどん恐いという思いにかわりかけていたときに、ダンスと出会った。はじめて出会ったコンタクトインプロヴィゼーションは衝撃的だった。即興で進められて、怪我もせず動きが成立している。あるところではそれがダンスになっていた。これが不思議でしかたなかった。身体だけで通じ合っている感じ。その頃は特に言葉を使うのが苦手だったから、そうじゃない方法で人と通じ合う領域が身体にはあるのかもしれないと感じたんです。
— それを農業に活かそうと思ったんですか?
それが直接農業に結びつくとは思ってなかったけど、その中にあるコミュニケーションとか伝達能力が活かせそうな気がして、始めたのがあるかな。
それと農作業の時に体幹をしっかりさせないといけないし、丹田も使う。その辺もダンスと結びつくかもと思ってるんですけど、まだどうつながるのか、わかりません。
単純に、農業をやってる人がダンスをしたり、ダンスをやってる人が農業をしてる状況があることでもいいと思う。でも、今はもうちょっと奥をさがしたいところです。
農作業って、いろんな感覚を使わないといけない作業で、肉体的な作業の連続だけど、勘も大事。天気や周りの状況を見て肥料をやったり、ハウスを建てたり、収穫をしたり、種をまいたりする。街の中で生活している感覚では使わない感覚を使う。農作業を通してそういう感覚を得られるということが明確に言えたら、農業に関わるもう一つの理由が出来るんじゃないかなと思っていす。
一回の集客の評価がどうってことよりも、この芸術家が活動を続けて行けるかどうかが面白い。
最近は島へ行ってダンスをつくっています。劇場とか、美術で言うホワイトキューブ以外の所に出て行って、作品を創って見せる。そうなったときに劇場でやっている時以外よりも、たくさんの相手とやりとりをして行かなくちゃいけない。もちろんダンスをやることが前提なんだけど、そこに住んでる人と話をしたりだとか、そこでのルールが自然とついてまわる。そういう劇場では発生しないことがともなうのが面白いと思っています。
— パフォーマンスってことよりも、コミュニケーションの方が面白いみたいなことですか?
そうかもしれない。パフォーマンスに付随するあらたなものを見つけてしまったというか。
もちろんできてくる作品に興味はあるけど。どういうコミュニケーションを経て作品になっていくのかのほうが楽しいのかもしれない。私の中ではそういう作業の連続は、踊っている感覚と似ていると感じるんです。
— やっていくなかで、「間違い」とか、「正解/不正解」っていうのは無いんですか?
あまりないですね。
チラシの誤植とか精算があわないとか、実務ではけっこうありますけど(笑)。
そういえば、踊っている時に相手とうまくあわなかったり、怪我をしたりする時、
このコミュニケーションではダメなんだな、と思うことはあります。
— 制作をしていて、出来上がった物があまりにも自分とはかけはなれたものだったり、主観としていいとは思えない物ができあがった場合どうしてますか?
私は結果で評価しないようにしているから、例えば公演でも作品が良くなかったとしても、それまでのプロセスが見返せればあまり問題にしないです。
— お客さんにはそれはわからない事がほとんどですよね?
そうですね、集客にも繋がるし。作品までのプロセスまで感じてしまえるような、作品がみせられたらいいですね。まるで制作として関わっているような。作った作品を上演するような劇場公演とは違う方向にいってしまうかもしれません。
— 作品を制作する上で、作家と作品と観客を結びつけたり、そのシステムを作るのが制作の仕事なのかなと話を伺っていて思ったんですが、そのときに作家より観客の目線が持ててるべきで、そういうときに何かアドバイスをすることはあるんですか?
少しは言います。私の言動や行動が作家を揺らす存在でありたいと思っています。最終的には作家に任せますが。それで作品が観客に受け入れられなかったとしてもいいと思っています。それはたぶん一時的なこと。逆に受け入れられない物も世に出て行く状況を作るにはどうしたらいいか考えるし、一回の集客の評価がどうってことよりも作家が活動を続けてゆくたためにこの世界とどうつきあわないといけないかを考えたい。
— 小鹿さんのメソッドみたいな物が確立されて来た経過みたいな物があったりするんですか?
あんまり考えた事ありません。でも踊ってるような感覚で制作をしてきたなとは思います。
あんまり決めない。でもひとつあげるとしたら、作家の作り方を知ってるから、その作品の解釈ができて、言葉やイメージにして知らせることができるというのはあります。自分が踊るのもそういう理由だと思います。振付をつくる人や、踊る人ととしての視点を得たいと思う気持ちがあります。20:32
— 制作って言う仕事/役割について教えて下さい。
作家から渡された言葉を噛み砕いて世界になげかける仕事、かな。文字に変えたり、イメージに変えたり。渡されたことを変化させる仕事。間(あいだ)に入る事が多いんです。いろんな隙間に。間に入ることで揺さぶる幅をもう少し広げられる。作家も制作の仕事に対して理解のある人じゃないとやってはいけないとは思います。同時に私も作家のつくる作業を理解していかないといけないと思う。ただの事務員で終わってしまう。自分が踊るのもそう。踊る事とはなんぞやってことを身体に記憶させつづけるから、制作の作業が充実してきます。
ひとつではない、あらゆる可能性が開かれてるから、そこがコンタクトとか制作っていう仕事の一番の魅力
— このコンタクト・インプロヴィゼーションって、観客に対してどんなことを感じて欲しいとかあったりしますか。
コンタクト・インプロヴィゼーションは手法に過ぎないし、出来た作品は作家が伝えたい物になるので、一概には言えないかな。コンタクトは絵の具だったり、空間をとらえるための定規にもなる。コミュニケーションとして教育や福祉分野にも応用される。自分の仕事の中でのコミュニケーションをどうとらえるかって方向にも持って行けるし、いろいろ可能性があります。
— ストーリーの無いコンタクト・インプロヴィゼーションを見たときに、役に感情移入するみたいなことができなかったりして、観客は何を準備してそれを見たらいいんでしょうか?
コンタクト・インプロヴィゼーションを見るのはインスタレーションを見るのに近いのかもしれないです。
それに実際にコンタクトを体験してから見ると見え方が全然違うし、発見もある。
ときどきやるワークで、二人で抱き合って床を転がるっていうのがあります。はたから見ると劇的だったり、セクシャルな感じもするんですが、本人たちは「まわる」という使命をまっとうするために、それぞれの役割を果たして行くだけなんです。それが3人4人になったらもっと複雑にそれぞれの役割を果たしていくことになる。
コンタクトをやっていて、触れあうことってなんかもっと広いんだな、いろんなことができるんだと思います。
体と体が離れていても、通じている時はあるし、それもコンタクト。
まとまりの無い話で申し訳ないです。
— でも、この先に何があるのかな?
感覚や解釈を増やすことで、知らない境地へいきたいのかもしれない。
わからないことを探るのは楽しい。
— 風邪をひいたときとか、怪我をしたときとか、自分の体があるってことに気づくけど、それを日常化するってことじゃないかと思っています。たとえば、関節を水だと思って動かしてみて下さいって言うワークショップがあったりするんですが、それをやっていると今までに感じた事がない動きを自分の身体がしているってことに気づいたりします。それは外から見ていると何でも無い動きかもしれないけど、自分の気づきの部分で変化が起こったりするから、自分の体を知るってことは誰かの体を知るってことだったりして、人だけじゃなく、体と物の間にある空間についてとか、それを体験する事で「知る」とか「気づく」事が上手になるとか、今までに無い体験が始まりだします。
まぁ、でもすぐそんな感覚は忘れてしまうけど。だから日常化するって大事だなと思ったりします。
制作にもそれは言えるかもしれません。
出来た物だけみていたらその前後を知ることは難しい。制作をやっていると何もないところから形になるところまで寄り添える。ダンスがダンスだけではなく、あらゆることに可能性が開かれてるような期待がもててくる。それが魅力かな~。
ダンスカンパニーだけではできなことが、一緒にやるとこんなことが可能になっていきます。
今年、瀬戸内海の7つの島で行われる「瀬戸内芸術祭」っていうのがあって、島を使ってダンスパフォーマンスをつくるっていう企画があります。ダンスカンパニーのモノクロームサーカスと大阪のクリエイティヴ集団grafとで作るんです。
お客さんは島の中をうろうろしてダンスを探す。さらには場所を移動する道中にあるダンスを探していく。
モノクロームサーカスはダンスを作る。grafはそれをお客さんがどうみたらおもしろいかを考えます。
たとえば、誰が観客なのか分かるサインをつくったり、ダンスをおきそうなポイントに装置をつくる。ダンスカンパニーだけではできなことが、一緒にやるとこんなことが可能になっていきます。
— そういう制作の現場ではどういう過程を経て作品は創られていくんですか?
時間を決めて創って行くのか、日常の重なりのなかでつくっていくのか?
ある程度の骨組みを持ち込んで、それに何が付着して行くかという感じで創っていますね。
やはりそうしないと場所や空間の特殊性は出ない。毎日毎日いろんな偶然が起こりました。
— 様々なシチュエーションでやられてきたと思うんですが、その空間を取り入れられたなってことはありますか?
今の作品が一番そうなるんだと思うんですが、まだ出来ていないのでなんとも言えないです。
— 今回はどれくらい滞在するんですか?
全部で一ヶ月くらいです。これはほんとにサバイバルです。
— 小鹿さんの話は現場の中で思考と経験を積み重ね生まれた悩みであり、答えのようでもありました。公演の制作を通じて作家と向き合い、作家がこれからの活動を続けやすくするための方法やアイデアに対して誠実に取り組んでおられる姿が会話の中から聞きとる事ができました。
小鹿さんの最近のテーマは「芸術家は育てられる物なのか」ということだそうです。そのためのいろんなアイデアもお持ちでした。作家と向き合い、一緒に作品制作を行うだけではなく、作家が社会の中で果たして行く役割や社会が作家に果たすべき役割を考えておられました。
地域資源っていっぱいある。廃屋とか商店街の空き家とか、村へ行ったら廃校もあるし、そういうところを稽古場として提供して、稽古に使わない時間を運用する提案をしてそこで地域に還元出来る事をしたり、収入が得られるような場にしたらアーティストもアルバイトせずにお金が得られるかなって。
いまアーティストがつけないと行けない能力は、特にダンスの分野ではプロデュース能力だと思っています。踊れる、作品作れる、それをどう外に持って行くのか、戦略的にやっていくのか、企画能力がないと。プロデューサーをつければいいんだけど、ある程度は自分で考えて行く力がないと、活動を継続出来ないだろうと思っています。だから、場所の運用を考えることで、そういった能力が身についてくるじゃないかと思ったりします。
アーティストが安定した生活を得ることができればと思うとともに、
一方で、安定した状態だといい作品は生まれないかもしれないとも思うんですが。
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瀬戸内国際芸術祭2010
モノクロームサーカス×服部滋樹
「直島劇場」Site specific Dance performance
日時:2010年9月23日(木)~26日(日)15:00より *雨天決行
場所:香川県・直島 本村地区
料金:無料 *予約優先
定員:各回100名
直島劇場 >>> http://www.monochromecircus.com/naoshima
>>> http://blog.refsign.net/topics/2939.html
※コンタクトインプロヴィゼーション
60年代のアメリカ で生まれた身体技法。「『ふれる』=コンタクト」という簡単で本質的な身体コミュニンケーションを基礎としながら身体への理解を促し、それぞれ異なる身体との出会いからムーブメントを作り出していく。 子供の遊びにも似たルールに基づいた集団でのコミュニケーションや、武道にも通じる重心や気のやりとりまで、様々な深さ、広さで自分や他者との対話を楽しむことができる。
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