教室の記憶を少したどってみました。
それはとても深い場所にあるもので、薄く短く浮かび上がって来ます。
それでも繰り返したどっていると眼下にひろがる校庭や、友だちの背中、
黒板の傷みぐあいと思い出し、そこに流れた風、臭い、味なんかも
身体が記憶している気がしてきます。
数年、毎日通う場所。一日のほとんどを過ごす場所。あいつらがいた場所。
それが、空間の記憶であって、思い出でもあって、忘れたいことでもあって、
不思議な記憶と感覚がそこにあるようです。

ここ数ヶ月、僕は教室を持っていました。
こんな歳になって持った教室の時間は、あの頃とはまた少し違った思いと、
それでも似た様な感覚が混じった不思議な空間でした。
そう、その空間を作っていたのは、そこにいる人たちでした。
先生がいて、生徒がいて、(先生と呼ぶには似つかわしくない彼女のバランス、
生徒と呼ぶにはあまりにもバラバラな大人感)
教室の持つ学びの目的はしっかりと保たれていて、
そんなバランスとアンバランスな要素を、
そこにいる人たちはそれぞれのセンスで時間を重ね、空間に在るようでした。
ときには漂って、ときには固く閉ざして。

休憩中に見る大通りに行き交うバスや車の背中が好きでした。
隣の卓球場から聞こえる奇声が好きでした。
先生の「ここ」の発音が好きでした。
「さん」付けで呼び合う距離と、ときどきそれを飛び越える瞬間が好きでした。
いくつかの「好き」がある場所を失い、淋しさはありません、今は。
何よりもそんな時間と空間と繋がりを持ったことに喜びを感じます。
そこは、数ヶ月毎日通う場所で、一日のほとんどを過ごす場所で、
少しだけ自分が成長した場所で、あいつらと過ごした場所でした。